山と海とマインドフルネス

すごい雑記だけれども、10月に山登り・海潜りにをしてきた。昨年誘われて行ってみると自然の中を歩くっていう行為に対して非常に爽快感を感じたため、今年もいってみたいなとおもっていたのでよかったという雑記

どちらも今ここに集中することができた=マインドフルネス

結論感じたこととしては、すごく没頭することができてこれは脳やストレスに良い感覚な気がしている。ランニングやボードゲームなどをしているときの感覚に近いものを得れた。あとサウナに長く入ったあとぐらいのときなど。普段は同時に様々な物事を考えなければならなく、現代社会に生きることはそういった多方面からのストレスに耐えないといけない。様々なものを考えているとありもしようもない想定までしてしまいネガティブになることも多いかもしれない(自分がその傾向が強いからかもだけど)

今回山や海にいったことで、そういった雑念を考える暇がなくなった瞬間がいくつかあって、その精神状態が非常に心地良かった。例えば山を登るときは目の前の岩をどう登ろうか、また下るときにもどのルートでいけば怪我をしないだろうかなど1つのことに集中・没頭していた。また海に潜っているときにも魚はどこにいるのか、どう動くのかっていうのを集中していた。こういった瞬間は実は日常ではあまり起きづらいのではないかと思っている。

「ネガティブを潰すのはポジティブではない、没頭」っていうのはオードリーの若林がどこかのエッセイかTVかで言っていたのを主題した。普段人はネガティブなことがあったら休めっていうわれるとおもう。そして休むのイメージというのはボーとするであったり、布団のなかで寝るとかのイメージがあると思う。自分もそう思っていて疲れたら寝てたりしてたのだけどイマイチ回復しない。ただやはりこの言葉通り疲れてたりネガティブなときはなにかに没頭することが1つ重要な手段な気がしている。なのでそれからは疲れたときにはゲームやランニングなど没頭できるものを意図的にやるようにしている。

今回のアクティブにいろいろいっている理由の1つでもある。自分のメンタルを良い状態に保っておくことはビジネスの世界で戦うにしても必ず重要な前提で、そのためには没頭するようなコーピング手段をなるべく幅広めにもっておきたいと思っていたからである。そういう意味においては重複になるが、今回山登りも魚突きも非常に効果的な手段なのだと感じた。多分キャンプとかも近かったりるするのかな、なんて思う。今後もそういった没頭できるアクティビティを求めてフットワーク軽くいきたいのでまた知り合いの方誘ってください・・


山編:谷川岳

山のことは詳しくなかったので、詳しい先輩方が選んでくれた谷川岳に行ってきた。早朝に起きることはきついなあと思いつつ、先輩方の車に乗り込み途中の会話を楽しみ・勉強になりながら山へ向かう。その道中も車がまず自動運転車でそれに感動したり、サービスエリアの独特な雰囲気に懐かしさを感じたりした。(やはり車があると色んな場所へ行きやすいから、ほしいなという思いが募る。車に全然興味ないけどテスラだけ欲しいなとは本当に思う。しかし某はペーパードライバー)

これも本題と関係ないのだけど、海外とかでいうと車を運転しながら考えるとか同僚とか友人と話す時間が長い気がしていて、コロナとか東京にいるとそういった時間とかがないのが関係性の希薄化を呼んでいるのかもしれないなと思いながら過ごしていた。そういった目的のないけれども半ば強制的に長い時間を少人数で過ごす時間というのは、非常に社会的に大事な時間なのではないかなと思ったり。。まあなのでキャンプとかそういったものが注目されているのだとは思うけど。

そうこうしているうちに山についたのだけど、紅葉が綺麗だな〜とおもいながらロープウェイで登った先から本格的な登山がスタートした。”小学生でも登れる山”って聞いてたので、まあピクニックぐらいかなと舐めていたらまあ写真のように険しい岩があり、、それって小学生でも起業できるやんっていうのと同じ表現だったんだなと気づいた。

結構行きはキツかった

結構普段はジムでランニングをしていたりするので、運動不足ほどじゃない自覚はあったのだけれども、それでも非常にきつかった。ただ山頂に近づくにつれて、あいにくの天気のはずだったのだけれども、晴れてきてめちゃくちゃ綺麗な山々が見えてきた。感想が”ああゼルダのブレスオブザワイルドみたい”って思ったのは自分でも今っぽいなとは思ったけども、その目の前の雄大な景色全部を独り占めしているような、本当にきれいな絶景だった。

ゼルダじゃん・・

山頂でコーヒーや食事をして、なぜ人は同じものでも景色や自然に囲まれると美味しく感じるのだろうかということを考えながら食べていた。もっというとなぜ人は山に登るのだろうかと。山に登って下るだけって本当に意味のない行為をすることがなぜこんなに人気なのだろうか。すごく哲学的な行為だなとおもいながら山を登っていた。餌があるわけでもないのに山を登り下る。なんのために?暇と退屈の倫理学にあった、暇の搾取のはじまりなのかもしれない。都会のど真ん中でさえあんまり道に行列なんてできないのに、山道が行列ができて前の人が登るのを待つ姿はなかなかに面白い。都会の中でもみない人によって道が混むという状況が大自然の中に見えているのはなんとも面白い。

海編:八丈島

そしてそのまま翌々週には違う方々と八丈島へ。山もそうだけどそういうアクティビティをやってみたいと相談していたら投資先の人が誘ってくれた。魚突きということでとりあえずああ一匹もつけないだろうし、これ自分潜れるかもわからないけど、ノリでいかなきゃ人生で一度も八丈島に行かず、そして人生で一度も魚突きをしない人生で終えてしまうと思い参加。

沖縄っぽい道。天気もよく最高だった

まず八丈島が非常に良かった。沖縄より離島感を感じられる。コンビニなんてものはないし、チェーン店なんて見る限りほとんどない。行きの飛行機で、マックを手にもって乗っている高校生を見てなんだろうと思ったけど、お土産なんだなって勝手に考えてほっこりした(違ったらすみません)離島ならではの魅力が東京から飛行機で50分くらいでいけてしまう。旅行っていうのは非日常を感じるほど元気が出るものかもしれないと思っているが、日本全国いってもある程度同じ景色が広がっているようになってしまったこの近代社会において非常に意味がある場所だと思う。

あと料理が美味しい。何食べても美味しかったが特に当たり前だけど魚介類と、お酒がおいしかった。ジョハリっていう焼酎?がここでつくっているものが非常に美味しかった。そして感動したのは夜空の星。ああこんなに星みれるの久しぶりだなと思ったくらい綺麗だった。本当に空気が住んで星が見える。地元の人が話していたけれど、島の高台にいくと両方が海だから一面が星にみえる。普通はどちらかは岸でどちらかは海という場合が大きいけれども島の面積も小さく両側が海が見えるぐらいから見ることができる景色は非常に綺麗だっていう話をされていて、もし今度いく機会あればそれをぜひ体験してみたい(今回本当に観光など一つもしていないので、また訪れてみたい)

八丈島について長く書きすぎてしまったけど、今回の訪問の目的は魚突きだ。瀬戸内海で育ったが瀬戸内海にほぼいったことなく、クロールも溺れているような動きしかできない自分に魚突きはできるのか・・そんな疑問を思いながらも、まあ人生何事も経験ということでやってみた。。

他の一緒に行った方々はスイスイと沖のほうに泳いでいき、思い思いやっていたのだが、最初の1時間自分はとりあえずシュノーケリングのYouTubeを見ながら一人特訓していた、浅瀬のほうで・・w いや思った以上にエグい難しいし、突くとかそういう問題でなくこれは死ぬ可能性もあるぞと思い、練習をまずしていた。ただ次第に慣れてきて、少し沖のほうにいくだけでウミガメに遭遇できたり、熱帯魚が泳いでいたりそれを見れただけでも非常に満足でなんというか陳腐な言葉だけど、自然のなかに生存している感じ・水の中で一体になれている感じがして不思議と途中から海の中でも安心できるようになっていった。

そして1時間ぐらいしてから、銛をもってでかけていき魚突きをしだしたが、まあ難しい。すぐに人間が異様な3メートルぐらいある銛をもって潜っていると魚たちは当たり前だけど身を隠す。そこを潜ってどちらの方向にいくのか読みながら銛を放つ。めちゃくちゃ難しかった。。ただ同時にハマる理由はわかる。これはラーニングできていくものだし、非常に集中力がいるものだからだ。狙っている間自然と息が止まり、はずすと叫んでしまう。(そして自分の場合は海水を飲み込み危なくなるというのが何度かあった)結局ただトラフグを一匹突けたので及第点かなと言う感じだった。

いきなり黄金伝説世代としては撮ったど!をやりたかったがそんな余裕はなく、かつめちゃくちゃ難しいことをしてたんだなと実感(今の時代でいうとナスDのほうが世間認知は高いかも)

結局自然とかそういう原始的なものを見ると喜びがでるのは動物だからなんだなっていうのを尊敬する方から言われたことがあるのだけど、そうだなあっていうのを実感した旅だった。都市化をしていくということは日常から危険性を排除していくことなのかなと思ったりしていて、例えば地方の公園などにいくと落ちそうなところにもなんにも対処してないところがあったりして、すごく動物としての人間としての本能であり、身体性を駆使しないといけないということがあるとおもう。

今回の山も海もその身体性をちゃんと捉えていないと落下してしまうし、潮に流されてしまう可能性があった。そういった危険性というものを排除してしまっていった結果、都市に住む人間は動物性的な楽しさであり没頭感を感じる機会が少なくなっていったのかもしれない。危険性があることが良いことであるとは全く思わないが、そういった刺激でありというものは人が本来求めているものなのかもしれないなと今回思えた。

より今後近代化が更に進んだ先に都市に人が住み続けるのか、そういった自然の身体性に戻っていくのかは自分が今後生きていく歳の中で論点になってくるものであることは今回のコロナをきっかけにも間違いないと思う。