時代を動かす思想はなにか(加速主義か利他主義か) ~VCが加速主義を盲信する理由~

少しトレンドからは出遅れましたが、昨年のOpenAIの騒動あたりからUSでも注目を浴びているe/acc(効果的加速主義)とEA(効果的利他主義)の概念の対立が顕在化してきているのを見て考えたい問いがあり記事を書いてみました。

ちょっとなかなかうまくまとめきれない難産な記事でしたし、こういうトピックにどこまで興味ある方がいるのか不安ではありますが、ぜひe/accやEAってなんでこんなに騒がれているのか?について気になった方など見ていただければ幸いです。

テクノロジーとイデオロギーは表裏一体

なぜこのような論点を考えたかったかというと、Glen weylという経済学者の、”テクノロジーとイデオロギーは表裏一体である”という言葉が強く自分の中では印象に残っている。
VCとしてもどのテクノロジーに対して投資をしていくのかを考えていく上でも、イデオロギーを考えることは必要だということを改めて認識をしたからである。そのためWeb3とマルクスのようなブログを書いたりした中で今回のテーマも書かざる/考えざるをえないと思った。

自分のような日本のVCの端くれがどのような思想をもち投資しようとと、そこまで世界に対してインパクトはないかもしれない。
しかし、サム・アルトマンがどういう思想をもつかは世界にインパクトを与える。まだ米国のVCなどファンドサイズが大きくなればなるほど、どのようなイデオロギーにもとづき投資をすすめていくかは考えざるを得ないであろう。
a16zのAmerican dynamismのような流れをみていると、彼らは政府に代わって、また政府と同調して何のイデオロギーをもとに、どのテクノロジーに投資をするかを熟考し、投資を実行している。

どういう世界を創りたいのか

先程自分のことを卑下はしたが、それでもVCの端くれとしてお金の流れを扱う仕事として、何のイデオロギーをもとに投資をしていくべきかということは重要視していきたい。どういうような思想/イデオロギーでどういう世界になっていくことを望むのかというのは抽象的な問いだが自分も考えざるを得ない。

前置きが長くなってしまったが、だからこそどのイデオロギーを今後中心に置きながら自分は活動していったほうがよいのだろうかということがこのブログを書く問いではあり、また読んでいただいた方にその問いを考えるきっかけになるような記事なれば嬉しい。

そのためにまず加速主義を振り返りながら、なぜいまそのイデオロギーが注目されているのかについて説明していきたい。


そもそも加速主義とは?

(本などから自分の独自な解釈をしているので、専門家からすると正しくないかもしれません。Xなどでご指摘ください)

この言葉に自分が出会ったのは数年前にたまたま読んだ、"ニックランドと新反動主義"という本で出会った。そのときにこの概念自体に共感を覚えた記憶がある。ざっくりと自分の解釈を交えて説明するが、専門家ではないため間違えた解釈である場合は優しくご指摘いただければ幸いである。
結論から書くと、加速主義とは、ネオリベラリズム/資本主義への対策として、あえて資本主義を強化するベクトルを加速させることを提案していることである。

資本主義/ネオリベラリズムの弊害にどう対処するか

この時代のヘゲモニーは資本主義であり、ネオリベラリズムである。この時代の精神というものが世界を覆っているし、ネオリベラリズムの中で生きているのが多くの国では当たり前となってきている。
かつて、フランシス・フクヤマが"歴史の終わり"を告げたように民主主義と自由主義の勝利の延長に今の自分達の世界がある

しかし実際の"歴史の終わり"というのは歴史の始まりではあった。その後資本主義/ネオリベラリズムが世界に蔓延していった結果生じる諸問題(大きいのは不平等/格差)というものは当たり前だがでてくる。そのような問題を解決するには新しいオルタナティブな選択肢が世界に必要であった。

ドゥルーズ=ガタリの脱領土化と再領土化

そのような中での思想家としての二人が加速主義においては関わってくる。それがドゥルーズ=ガタリである。彼らは脱領土化と再領土化によって資本主義がもたらす影響を俯瞰して考察した。

資本主義が推し進める脱領土化・脱コード化

資本主義というのはすべてを貨幣価値に基づき流動化させていく性質をもち、そのような減少は彼らの言葉で話すと脱領土化・脱コード化していくことを指す。
その領土・コードと言う言葉には、例えば文化や信仰や土地や国家・家族・伝統というものが含まれており、グローバリゼーション/資本主義はそれらに流動性をもたらしてしまうため脱領土化していくことを予言していた。このあたりは以前ブログで書いた、「いまなぜ空間は退屈か」にも近い

自分の言葉で解釈すると、例えば昔は助け合いが近所で無料でモースの言葉でいう贈与の中で行われていたはずだが、例えば都会にいき、資本によって流動化していくと何をするのにもお金を介して行われることになる。昔のように地域コミュニティという共同体を解体していっているのが今の資本主義であると理解している。ネオリベラリズムな態度の中ではすべてが金銭的な価値観で取引が行われており、貨幣によってすべてが流動化してしまっている。
一方例えば地方出身の自分としてもその共同体はしがらみでもあるとおもうので、流動化のおかげで今の自分も存在しているので一概に悪でもないとは思っている。

脱領土化とは資本主義や分裂症に見られる解体と分散化のプロセス、より具体的に言えば、資本主義であれば資本や土地の流動化とそれに伴う国民国家や家族制度の解体(ニックランドと新反動主義)

反動による再領土化の流れ/資本の再配分/web3の流れ

ドゥルー=ガタリは脱領土化が進むと同時にその反動として、再統合のプロセスの引力も働くと論じており、それを再領土化と呼んでいる。脱領土化により今までの自分の主体性が結びついていた領域・コードがなくなっていくときに、人々は反動的に再領土化をしたくなると論じている。
それは例えば、資本主義によって生まれた格差を国や地域というものを通して、資本の再分配をしていくといったベクトルも再領土化の一つと言えるであろう。

これは世界が右傾化していっている現状にも当てはまると言えるのではないか。脱領土化していくなかでも、その中で民族性・土着性というべきかそういったかすかな領土性を求める欲求は残っており、そういったものが民族などと結びつきが強すぎると保守・右傾化が進んでいき、間違ったナショナリズムは排外主義を産んでしまう危険性がある。

スタートアップの世界でいうと"コミュニティ"という言葉がこの数年は一つトレンドではあるとはおもうけれども、これも再領土化の1つの現われだとは思う。(とか書きつつ、脱領土化を促すものでもあるなとは思ったが・・)

マルクスのアソシエーションのようなコミュニズム的な思想というものも、この再領土化の要素に当てはまるといえるであろう。コモンの再生のようなところにある"再生”という言葉がそれを表している。
広義でいうとWeb3という概念も再領土化であると思う。GAFAMに独占された(脱領土化された)ものに対して、自分たちの主権をある一定度の領土性(Protocol)をもって取り返す流れだと認識している。

再領土化とは、つまるところ総合のプロセスであり、たとえば資本の再分配に基づく福祉資本主義などは、一旦脱領土化したプロセスをもう一度国家のシステムの内に再領土化する試みと捉えることができるだろう。言い換えれば、脱領土化と再領土化がバランスよく相互反復されることによって、現代のグローバルな資本主義国家システムが維持されている。(ニックランドと新反動主義)

ニックランドがドゥルーズ=ガタリから加速主義の流れを構築

長くドゥルーズ=ガタリについて書いたが、これをもとにニックランドというイギリスの哲学者が加速主義という概念を作り上げていった。(*彼が名をつけたのではないが)

ランドが哲学者として活動していた1990年代に、ポスト構造主義の影響を受ける中で、啓蒙主義や人間中心主義に批判的な態度の文脈と、その当時勃興したインターネットというテクノロジーを目の前にしたランドは、まさに資本主義と技術の進歩が相互に強化しあうという交差点にいた。
その結果、加速主義という時代に対して新たな1つの切り取り方を明示した。つまりドゥルーズ=ガタリの議論に、テクノロジー/技術の観点が加わり、それが加速主義という考え方に発展している。

ドゥルーズ=ガタリの、脱領土化の資本主義の及ぼす力/現在進行形で世界を変えていっている技術の進歩というものを賛美し、人間中心主義な・啓蒙的な世界観を否定し、非人間主義的な方向性を強く打ち出している。
近代特有の啓蒙で世界が理解できる/コントロールできると態度に対する批判として、テクノロジーを引き合いにだし、近代のその出口を探すためにはテクノロジーの発展を加速させていくことにより資本主義のより脱領土化へのベクトルを早く進めていくことが出口につながるのではないかという思想を提示した。このあたりの彼のテクノキャピタルマシンと言う思想は、a16zのTech optimist宣言などでも良いようには使われている。

こうした彼の加速主義のベクトルを補強するように同じグループ(CCRU:サイバネティック文化研究ユニット)にいたマーク・フィッシャーもいくつか資本主義に対して論じている。
「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」と資本主義リアリズムで論じているように、資本主義のオルタナティブのなさに対しての深刻な無力感と文化・政治的な不毛さについて嘆いている。資本主義の問題点に関して、どのように対策をとるべきかを考え抜いたがオルタナティブがないことに絶望をしている。これは間接的にだが、ランドの脱領土化・テクノキャピタルマシンによる加速化を肯定する一助に自分は思える。

スルニチェク/ウィリアムズが人間中心の加速主義

一方でランドの思想は非常に極端であり、個人的にも賛同できないところが多くある。シンギュラリティに早く到達して人類を滅ぼしたい/どちらかというと終末論的な意味合いにおいて加速主義の思想を発展させている。啓蒙を軽んじすぎているように思えるし、あまりにもディストピアな未来を描いているように思える(言いたいことはわかるが・・)

そこで個人的にも思想としては共感している左派加速主義のような論者があがってくる、代表的な論者としてはミレニアム世代でもあるスルニチュクとウィリアムズである。
彼れらは、加速主義派政治宣言(MANIFESTO for an Accelerationist Politics)をネット上で発表し、ランドの思想を踏みながらも異なる方向性の加速主義の論を展開している。

ランドの思想の重心としては、人間中心ではない。あくまで宇宙や世界が重心として重い。なのでテクノロジーを加速した先に人類が滅亡しようと構わない、むしろその死の欲望みたいなところが彼の思想からは感じる(実際に、ドゥルーズ=ガタリの"器官なき身体"をベンチマークしている)

一方でスルニチュクとウィリアムズはの重心はあくまで人間であるように思える。左派加速主義は、人間が技術と共存するような加速を促している。彼らはテクノロジー、脱領土化を加速させることについては共通しているが、そのベクトルをナビゲートすべきだという少しランド的な観点でいうと啓蒙的思想が入っている
ランドがポストヒューマン的な思想である一方、彼らはヒューマニズムの再考について考えている(この意味において再領土的ではある)

テクノロジーを加速させることで人間を疎外していくが、完全に疎外した先に新しい人間性に出会えるかもしれないというものだ。たとえば彼らはテクノロジー・AIによって人間の仕事は奪われるべきだという。そして”完全なる自動化を通じた労働の削減、そして労働時間の短縮化を通じての労働力の供給の削減”を通じて、"経済的な成果の減少や失業者の深刻な増大をもたらすことなく、顕著な量の自由時間を解放できるということになるであろう”と提示している。

自動化とともに、機械がすべての財やサービスをますます生み出すようになり、そうしたものを作り出す労苦から人類を解放するのである。(スルニチェク、ウィリアムズ『未来を発明する(inventing Future)』 )

加速の結果にUBIとAIによって再構築される世界

そしてその先に彼らが提示するのがUBI(ユニバーサルベーシックインカム)で成り立つ世界だ。その世界においては”労働を本当の意味で自発的なものとみなす ことが可能となり、首を切られるかもしれないという恐怖に怯えることなく、「労働者は優位に立ち、資本はその政治的な力を失うことになるだろう」” という資本主義を加速させた結果、資本の政治的な力を失わせることができるという論理展開を行っている。(その結果、ブルシットジョブがなくなり、エッセンシャルワーク・ケアの産業への報酬の高まりが起こるという論説も面白いが割愛)

まさに以前自分も下記記事で書いたようなSam Altmanが描いているような世界観にこの左派加速主義の描く未来が出現してきているように思える。だからこそ今この時代にe/accなどのことが再注目されはじめたのだと個人的には認識している。

#27 サムアルトマンは未来をどう創るのか 〜AIが人間の仕事を奪うことでユートピアはきたる〜


AIに対する考え方によって加速主義が再燃

ここまで加速主義についての歴史を自分なりの解釈を踏まえた上で説明してきた。その上で、いまなぜこの議論がでているのかというと、急速なAIの発展が再燃したことが一番の要因ではある。テクノロジーの進化が止まらない中で、GPT3,4の技術を見たときに、本当にこのままAIのテクノロジーを加速させていいのだろうかという議論が起きた。
このあたりのOpenAIの議論は多くの記事で紹介されているので割愛するが、そのため内紛が起こったりしたのが2023年であった。

信じるべきイデオロギーが問われる

OpenAIの議論などを見るに、なにを信じるべきなのか・どういう思想/イデオロギーに基づくがより問われるようになってきた。その中で改めて着目を浴びたのが加速主義であった。(バズワード化しているのはe/acc(効果的加速主義)ではあるが)そのためそれがどういう思想なのかを説明するため前半で説明させていただいた。
そしてもうひとつその対立候補として挙げられるのが効果的利他主義(EA)である。

効果的利他主義=再領土化の効率化

ここまで読んでいただければ重複だが、加速主義は脱領土化・脱コード化を推し進める。その中で反動として再領土化へのベクトルが生まれることは説明したきた。効果的利他主義とは自分の解釈でいうと、再領土化の効率化を行うことで資本主義を受け入れながらも人にとって最善を目指すイデオロギーであると思う。

利他主義とは、フランスの哲学者コントが19世紀によって提唱された概念で、個人は社会の一部であり、社会全体の幸福に貢献することが個人の幸福に繋がると考えた。つまり個人が自己の利益を超えて他者の幸福を重視するべきだという論である。
その利他主義により、善意といういものだけでなく、資本主義的なリターンや効果をの最大化を考えていこうというムーブメントが混ざっていったのが"効果的"利他主義である。(効果的というより影響最大化的と翻訳したほうが意図に合う気もする)
ウィリアム・マッカスキルの効果的な利他主義宣言でも下記のように記述がある。

効果的利他主義で肝心なのは、どうすれば最大限の影響を及ぼせるか?を問い、客観的な証拠と入念な推論を頼りにその答えを導き出そうとすることだ(中略)
利他主義は単純に他の人々の生活を向上させる。効果的とは、これは手持ちの資源でできるかぎりのよいことを行うこと。効果的な利他主義では、世界にできる限りの影響を及ぼそうとする。ある行動が効果的かどうかを判断するにはどの行動がどの行動より優れているかを理解しないといけない(〈効果的な利他主義〉宣言! ――慈善活動への科学的アプローチ)

この流れはWoke capitalismという政治的に正しくふるまうことが多くの経済的ベネフィットにつながるのではないかという最近注目されている考え方にも繋がるものがある。
一方どちらも資本主義の根本的な原因療法ではなく、対処療法であるという言説もあり、その面も確かにある。

"e/acc" vs "EA" = 脱領土化の加速 vs 再領土化の効率化

冒頭にも一度書いたがこの議論はどちらも資本主義/ネオリベラリズムに対する対応策・オルタナティブを考える論点から始まった議論ではある。そしてドゥルーズ=ガタリの脱領土化と再領土化を繰り返すという議論の中で、脱領土化を推し進めること、加速させることでEXITをめざす考え方と、福祉国家/福祉資本主義の中で再領土化・再分配を効率化する・最大限影響を及ぼすことで対処を目指す考え方が生まれてきた。
そして今回のAIの議論の流れのなかでより両者のイデオロギーの対立が表面化してきたことにより注目度が今上がってきた経緯だと理解している。

これは解釈間違えてたら恐縮だが、たとえば貧困の問題を考えるときに、
①100万円を寄付するより、100万円でAIの進化をさせたほうがAIが根本的解決をしてくれるかもしれない=加速主義的
②100万円をAIに使うより、今貧困地域に寄付して配ったほうが解決に近くなるかもしれない=効果的利他主義的

という違いがあるように捉えている(極端な言い方をあえてしているが・・)

では、本題のどの思想/イデオロギーを信じるべきなのか。正直どちらが正しいというのは判断しずらい、しかしVC/スタートアップ業界はどうしても加速主義的なバイアスが強くなっていくことは認識しなければならない

VCが加速主義を盲信する構造的な理由

変化/成長こそ利益の源泉

正直VCという存在は加速主義を盲信するしかないインセンティブが強すぎる。当たり前のことを書くが、VCから調達する資本は、資本コストが高い。つまり社会/業界が高成長であればあるほど相性がよい。
高成長であるためには人口増加が一番重要ではあるが、次に重要なのは技術革新によるマーケットシェアの変動であり創造である。なのでインターネットという技術革新によって、VCマーケットというものは格段に成長していった。
そういった変化こそが利益の源泉であり、社会や世界がステイブルな状態になってしまうことはVCとしては望むべきものでは全くない。

テクノ・オプティミストは、社会はサメのように成長するか死ぬかのどちらかだと信じている。
私たちは、成長とは進歩であり、活力、生命の拡大、知識の増大、より高い幸福につながると信じている(中略)
そして、唯一の永続的な成長の源泉はテクノロジーなのだ。
実際、テクノロジー(新しい知識、新しい道具、ギリシア人が テクネと呼んだもの )は常に成長の主要な源であり、おそらくは唯一の成長の原因であった。(Techno-Optimist Manifest DeepLによる翻訳)

インターネットの成熟化とVCのファンドサイズの巨大化

インターネット>Smartphone>クラウド化という形で、技術革新が次々と行われていった結果、既存のECや広告事業など中心に様々な業界で変化が生まれていった。その結果の成長が生まれ、GAFAM中心としたインターネット産業というものがこの20-30年間の間で起こったことである。

しかし昨今の状況を見ると、そういったインターネット業界・ソフトウェア業界における成熟化が進んできた。よく言われるようにソフトウェア・Webサービスにおいては1番が独占化しやすい。その結果GAFAMの独占が始まっており、もちろんまだまだDX含めてソフトウェア・インターネット産業自体は成長していくが、前ほどの成長率ではなくなってきているのではないか。これはVCにとっては不都合な事実である。

特にこの数年US中心にVCのファンドサイズというのは巨大化をしていった。そのリターンを返すためには、大きな成長産業をもはや生み出すしかない。そのためには技術革新を加速させていくしかないのである。

a16zのように自らナラティブを創り変化を生み/加速させる動き

今回もこの議論をより加速させたTechno-Optimist Manifest はa16zにより執筆された。この加速主義などをより宣言し、このイデオロギーに基づく動き方をしているVCの代表格だと思う。
"Software is eating the world"からはじまり、"It's time to build"もそうだが、メディアなども自社でうまく活用し、常にナラティブを構築し、新しい加速を生み出そうとしている意思が伝わってくる。

自分がその思想を確信したのは、このMarc AndreessenのOn Availability Cascades という記事である。この記事であるように、ある種の言説を創っていく動きということを大事にしていることが伝わってくる。
そのためCryptoもAIも含めてどんどん市場変化を浸透させていかなければならないため(VCのリターン的にも)、これまでのこのような活動の流れと、加速主義(e/acc)のトレンドにのり上記のManifestの文章を書いたのだと思う。自分たちもその流れに乗っかっている。

アベイラビリティ-「アベイラビリティ・ヒューリスティック」 または「アベイラビリティ・バイアス」の略。
カスケード」とは、「社会的カスケード」の略で、「 表出された認識が個人の反応の連鎖を引き起こし、公の言説の中で利用可能性が高まることによって、その認識がますますもっともらしく見えるようになること」を指す。

アベイラビリティ・カスケードとは、多かれ少なかれ恣意的なトピック、つまりカスケードが始まったときにたまたま人々の前にあったトピックに基づき、社会的カスケードが集団に波及することで起こるものである。(On Availability Cascades deepL翻訳)

次のテクノロジーの普及が早まれば早まるほどVCは利がある

説明してきたように変化がないと急速な成長がしずらいなかで、VCが変化を生み出すことにインセンティブがあるのは明らかである。(もちろんスタートアップにも)なので次の変化はなにか?ということを常に自分含めVCは気にしているはずだ。
そこでCrypto・VR/AR・AI・Synthetic Biologyなど含めてそういった変化を加速させるための投資を心がけて行っているし、なんの変化にのるか?という観点でFacebookがMetaと社名を変更したことでメタバースという言葉が先行して広まっていったし、VCとしては広めていく理由があることは理解できるであろう。

一方VC的態度としてはこのあたりは思想が別れてくるところだとは思う。例えば冷静に数字だけ現実を見ると、いまそのような変化はまだ起きていないから待つという方針も正しい。
だが個人的にはVCである以上、変化を起こす気合では投資に向き合う思想ではありたいと思っているが、シードVCっぽさでもあるかもしれない。(一方日本のVCでどこまでそういうことができるのかは正直不安ではある。Sequoiaはマーケットを創る投資はやめとけと言っていて、それも正しい。)

大企業や今のシェアを守りたい側は効果的利他主義を推す構造にもある

一方既存のプレイヤーとしては変化は怖いものである。自分のシェアや自分の地位を脅かす変化は既存プレイヤーからはご遠慮である。
そのため変化の加速を生むような主義/思想よりは、今の世界のなかでどう世の中を良くしていくかという資本の再配置・再分配のようなところへの力学に構造的になりやすい。
その流れはSDGs的であり、ESGでありそういったものに現れてくる。先に取り上げたWoke capitalismの流れになってくる。ポリティカル・コレクトネスに基づき資本を再分配するインセンティブを強めていく(そのようなベクトルが悪いとは思っていない、むしろやるべきだとも思っている)

中庸をどう考えるのかが大事

これを書いてしまっては冒頭の問いに対しての答えがなくなってくるのだが、結局はどちらが一義的に正しいというものはないと思う。もちろん個人のポジションをとれといわれれば、VCの仕事柄も自分の思想も左派加速主義のポジションをとる。もっと世界は加速していくべきだと思う。特に日本においては新しいものにもっと寛容に受け入れていく風土をつくりたい。
しかし、かといって再分配を考えるなと思わないし、行き過ぎた加速主義には犠牲があるのではないかと思う。(と同時にこのポジションのとれなさが自分の弱さでもあるのかもしれない)

これまでの哲学的思想や概念も、ある思想がでてくればそれに対抗する思想がでてくる。そしてその対立を繰り返しながら、バランスを保っていくことが多い。すべての概念は右派と左派を螺旋のように対立と融合を繰り返しながら、変容していくのではないか。極端な視点を持たないと突破できないことはあるかもしれないが、社会に必要なのはバランスなのではないかと思っているし、今後も新たな思想がよりでてくることを臨んでいるし、できればそういうことを自分も考えていきたい。

例えば、この議論がでてから例えばVitalikは「d/acc」(Defensive (or Decentralization, or Differential) Acceleration)という概念を提唱していたりする。加速主義に対して好意的にもちながらも、中央集権的な加速主義に対しては危機感を抱いており、防衛や分散化をしながらも民主的な加速主義を実現すべきだという提言をしている。ぜひブログ面白いので一読を

今後も時代には思想が必要

ポストモダンな時代を生きる私達

大きな物語の終焉がポストモダンだとしたら、自分たちは小さな物語の中で生きていることは確かなことである。つまり万人が信じる真理はなく、言語ゲーム・ナラティブによって構築された世界を生きるしかない。(ナラティブだけが人を動かすという記事で書いた。)
ナラティブもなく、依拠する思想もない世界においてはニヒリズムと悲観主義に基づく退屈なディストピアな世界になってしまう。日本においてはそのような世界に入っていっている感覚がある。その際に気をつけないといけないのは大胆な思想によってポピュリズムに則った政治が現れ、良くない方向性(排外主義)に大衆が動いていくことだ。
だからこそ時代を表す思想がなにかというのは気をつけなければならない。

歴史のはざまで生きる目標が何もない。
世界大戦もなく、大恐慌もない。
おれたちの戦争は魂の戦い。 (映画:ファイトクラブ

加速するシリコンバレーの哲学

もともとオルタナティブから始まった思想であり、左派であったシリコンバレーの思想が強化されていっているのも感じる。
例えばリバタリアンとして有名なピーターティルや、BitcoinマキシマリストでもあるBarajiなどは、政府などの官僚主義が技術革新の邪魔になっていることを指摘している。(非常に反啓蒙的である)
FDAの認証が遅かったり、様々な規制をつくる姿勢である。そのためティールはFDAを解散させようとしていたりしていた。
また、最近のニュースでOpenAiが軍事利用を禁止していた一文などが消えたりしたことが取り上げられたりしている。より自由に、より加速をさせようという雰囲気を感じる。

この流れを組んだように、アルゼンチン大統領のハビエル・ミレイ大統領のダボス会議でのスピーチ内容が話題になっている。明らかにリバタリアン的であり、加速主義的である。そしてランドのいう政府のコントロール(カテドラル)にたいしての批判の文脈を継いでいる。
内容の是非についての判断は棚上げした上で、ダボス会議の意図とはそぐわない内容が発言として取り上げられ、注目されているのを見るに世界がいまなにを信じるべきかを迷っている時代であることは確かである。

西側の価値観を守るべき人々が、社会主義、ひいては貧困につながる世界観に取り込まれてしまっています。
残念なことに、ここ数十年、他人を助けたいという崇高な意図と、特権的なカーストに属したいという欲望にかられ、西側世界の主要な指導者たちは、自由というモデルを放棄し、集産主義のさまざまなバージョンに走りました。(中略)
問題の原因であるどころか、経済システムとしての自由市場資本主義こそが、世界中の飢餓、貧困、困窮をなくす唯一の手段なのです。(中略)
言い換えれば、資本家は、他人の富を横領するどころか、一般の福祉に貢献する社会的恩人です。
つまり、成功した企業家は英雄なのです。
これが、私たちが未来のアルゼンチンに提案するモデルです。
生命、自由、財産の擁護というリバタリアニズムの基本原則に基づいたモデルです。(中略)
あなたがお金を稼ぐなら、それはあなたがより良い製品をより良い価格で提供し、それによって一般的な福祉に貢献するからです。
国家の進出に屈してはなりません。国家は解決策ではありません。国家は問題そのものなのです。 (ダボス会議で西側諸国の「社会主義化」を警告~ミレイ大統領の演説全文

一方でキッシンジャーは、“How the Enlightenment Ends(こうして啓蒙は終わる)"という記事の中で、 AIの危険性について提案しており、哲学/思想がAIをもとめるのでなく、AIが思想/哲学を求めるような逆転現象が起きてしまっていることについて危惧を述べている。AIが人間の啓蒙を奪っている。(一方AI活用を否定しているわけではない。)加速主義は主語が資本やテクノロジーにある気がしており、指摘の点は理解しうる。
このように今時代も様々な思想・考え方が提案されている。

The Enlightenment started with essentially philosophical insights spread by a new technology. Our period is moving in the opposite direction. It has generated a potentially dominating technology in search of a guiding philosophy.(How the Enlightenment Ends

最後にVitalikのポストの最後にかかれたことと同じ思いを抱いているので引用してしめようとおもう。22世紀に向けてどういう世界になっていくかは、今生きている自分たちがどういう思想で物事に向かうか次第である。
日々の活動では大体はてんやわんやでこんなこと考える暇もないが、たまには俯瞰して自分の投資活動を振り返りながらどういう思想/イデオロギーで何をやっていきたいのかを自分に問いながら活動していきたいし、これを読んでくれた方々が考えるヒントにこの記事がなれば幸いである。

私たちは建設し、加速する必要がある。しかし、私たちが加速させようとしているものは何なのか?21世紀は人類にとって極めて重要な世紀であり、今後数千年にわたる私たちの運命が決定される世紀かもしれない。
逃れられない罠のひとつに陥るのか、それとも自由と主体性を保つ未来への道を見つけるのか。これらは難しい問題だ。しかし私は、その答えを見つけるための私たちの種の壮大な集団的努力を見守り、それに参加することを楽しみにしている。(My techno-optimismよりDeepL翻訳)

-引用
ニックランドと新反動主義
啓蒙思想2.0
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
〈効果的な利他主義〉宣言! ――慈善活動への科学的アプローチ
https://voice.php.co.jp/detail/9087https://a16z.com/the-techno-optimist-manifesto/https://www.vogue.co.jp/change/article/live-better-do-good-betterhttps://www.fhrc.ila.titech.ac.jp/report/about-rita-vol1/http://blog.tatsuru.com/2023/05/10_0940.htmlhttps://a16z.com/the-techno-optimist-manifesto/https://www.theheadline.jp/articles/972https://www.city-journal.org/article/was-nietzsche-a-techno-optimist